【レトロパチンコ文化考察】第34回:1970年の大阪万博で紹介されていた、運命のパチンコ台(後編)

※前編は⇒コチラ

(写真)1970年、小田原市にあったホールの『万朶の桜』ポスター

 西陣が1970年に発表した最新鋭機『万朶の桜』は、海外製の動力によって1分間に100発の正確な打ち出し(※当時はまだ手打ち機)が可能となり、ヒット街道をばく進。

(写真)1970年、小田原市にて手書きの『万朶の桜』告知

 前編で紹介した通り、同年開催された大阪万博の電力館で上映された、日本を紹介する映画でも取り上げられました。

 ところがその機種に致命的な欠陥が発覚し、全台回収という騒ぎが起こってしまいます(残念ながら当方の資料を調べた限りでは、具体的な欠陥内容は分かりませんでした)。

 当時の様子について、西陣の創業者である清水一二氏の生涯を綴った「明珠照影」という書物では、ご本人の言葉として以下のように記しています。

「昭和四十五年度、約30万台にのぼる万朶の桜ショック、即ち、ベニヤの硬度、ゲージ構成などによりますが、約十億円の損害と、約四百五十軒の一流ホールを他社に奪われました。その十億円の損害も、膨大な不良在庫品を抱えたものであります」

 この事件によって、清水氏は心臓を患い眠れぬ日を過ごしつつも、社員50名の解雇に踏み切ります。もちろんすんなりとはいかなかったようで、心労はさらにかさみ、鬱病まで発症してしまったそうです。

(写真)西陣創業者・清水氏(左)と初代ソフィア社長・井置氏(1968年撮影)

 さらに追い討ちをかけるように、創業時から共に歩んで来た製造部門会社・ソフィアの初代社長である井置光男氏も、この騒動により心身を患い急逝してしまうというショッキングな出来事が。当時の状況たるや、まさに想像を絶するような有様であったことでしょう。

 『万朶の桜』事件から約6年後、清水氏は52歳の若さでこの世を去りました。しかしその後西陣は数々のヒット機種で盛り返し、平和やSANKYOとともに「桐生三大メーカー」と呼ばれる存在感をアピールし続けました。

 時は経ちさらに紆余曲折を経た今年2023年、残念ながら西陣は廃業を発表。業界内外に大きな衝撃を与えました。

 今回は、奇しくも55年ぶりの開催を控えて盛り上がる大阪万博の様子を見て思い出した、運命のパチンコ台『万朶の桜』について書いてみました。