【ぱちんこヒューマン】第1回:遊技業界の“再建屋”と呼ばれた男…柴田金吾氏(前編)

 パチンコ・パチスロに関わる様々な“気になる人”にフォーカスした「ぱちんこヒューマン」第一回目のゲストは、1990~2000年代複数のメーカー役員や社長に就任後、数々のヒットを連発し「再建屋」の異名を欲しいままにした柴田金吾氏です。業界に入ったきっかけやヒット機種連発の秘訣、そして今後のパチンコへの提言など、大いに語って頂きました。

▲▽業界に入ったきっかけは「カジノスロット」▽▲

(写真)ラスベガスのカジノイメージ

編集部(以下『編』)…まずは、柴田氏がパチンコ業界に入られたきっかけを教えて下さい。

柴田(以下『柴』)…1980年代になりますが、アメリカのシアトル・ポートランド・サンディエゴの3都市でホテルチェーン経営や不動産開発をしていた会社のアメリカ支社長を拝命しておりました。その時懇意にしていたRuffler bankの頭取が、カジノ向けスロットメーカーの融資事業などを手がけていたことから、私も興味を持ちはじめたのがそもそものきっかけといえるかもしれません。

編…アメリカのカジノスロットがきっかけとは、意外ですね。

柴…その後、長期休暇をもらってアメリカやイギリスのカジノへ行きスロットマシンの調査研究をしていたのですが、たまたま本社の不動産事業部門の指示で日本の警察官僚のイギリスカジノ視察をアテンドすることになりました。その際先ほどの銀行頭取の紹介によってスロットメーカーのエレクトロコイン社に訪問した時、パチンコ台が展示してありまして…。

編…エレクトロコイン社といえば、1992年に日本法人がパチスロに参入していますが、それ以前になぜイギリスにパチンコ台があったのでしょうか?

柴…当時、日本のメーカーがパチンコ機を使ったカジノ向けマシンの開発をエレクトロコイン社に依頼しており、その機械が展示してあったのです。ですから、正確には現金を直接投入し現金が払い出されるパチンコ型のカジノマシンでした。

編…’80年代に、そんなマシンが既に存在していたとは驚きです。そして、行く先々でスロットやパチンコとの出会いがあったというのも、運命的ですね。

柴…自分でも不思議な縁や運命を感じるのですが、さらに偶然が重なりまして、当時私の務めていた貸しビル業の本社は日本国内で『西日本ディズニー』というパチンコ関連会社を保有しており、福岡に日本初のワンフロア1200台の大型ホールを開業したのです。その店舗は従業員がローラースケートを履いて移動するなどユニークなサービスが話題になり、TVなどでもよく紹介されていました。

編…その店舗はかなり話題になりましたので、覚えています。パチンコホールにもご縁が出来始めたのですね。

柴…当時、アメリカにいながらもそうした事業の応援部隊として何度か来日しているうち、常務として本格的に帰国することになりました。本当はもう少しアメリカで勉強したかったのですが、以降パチンコ業界にお世話になる大きなきっかけになったと言えますね。

▲▽パチンコメーカー「奥村遊機」の社長に就任▽▲

編…西日本ディズニーでの成功を経てパチンコメーカー(奥村)の社長に就任されていますが、その辺りの事情はどんなものがあったのでしょうか?

柴…私が奥村遊機(※パチンコメーカー。2015年倒産)の社長に就任しましたのは1997年、ちょうど50歳の時でした。当時の奥村は他社に比べ低迷気味で、会長から3年で立て直してほしいという依頼を受けての出発となりました。

編…当時の奥村は『CRヤジキタ(1996)』や、甘デジの実績もあって強いメーカーのイメージでしたが……?

柴…そうです、ヤジキタに加え甘いタイプの『加トちゃん』シリーズも人気で年間7万台・150億円の売り上げもあったのですが、創業者である会長にとってはまだまだ満足のいく数字ではなかったのです。当時のパチンコのトレンドとして、1回の当りで500~600個獲得する甘デジよりもホールの売り上げに貢献出来る2400個出るタイプが望まれていましたから、そちらへシフトしていくことになるんですね。

編…てっきり当時は独自路線で地位を築いていたイメージのあるメーカーでしたが、裏側にはそんな方向転換があったのですか。

柴…とはいえ、私自身も開発や営業など一から勉強しなければならなかった上に、最初の一年は前社長の残務整理と名古屋市大須地区にあった直営ホールの黒字化などに追われ、なかなかぱっとしませんでした。しかし2年目以降は全国のホールチェーンへ社長訪問をしながら関係性を築き、開発ではコナミ社のモニター演出を用いた『CR千両歌舞伎』が完成し勝負に出たところ、年末商戦という時期も重なり5万台を越えるヒットとなりました。

(写真)『千両歌舞伎』発表会での柴田氏(写真左中央)。同機種は大きな注目を集めた

編…まさに、時代のニーズに合わせたヒットを生み出したのですね。

柴…続いて発売した『CR笑ウせぇるすまん』は一週間で完売し、さらに『マジカルサーカス』シリーズなど次々に当り、終わってみれば2年目は19万台・380億円という売り上げを達成することができたのです。その頃から、私のことを業界内では“再建屋”と呼ぶようになった、と聞いておりますね。

▲▽奥村とのあつれき、そして退職へ▽▲

編…他メーカーや業界関係者からも、畏敬の念を持たれていたのでしょうね。しかし順風満帆の中社長を辞任されていますが、何があったのでしょうか。

柴…当時の奥村は年間20万台販売を目指し、2~3ヶ月ごとに6機種発売することを目標としていました。そうしますと、様々な事態を見据えて10機種以上は開発しておかねばなりません。そのように多忙な中、一緒に苦労を共にして来た役員が会長とイザコザを起こし辞職してしまったのです。何とか修復を試みたものの、オーナー企業ゆえ聞き入れてもらうことが出来ず、結局私も責任を取って辞任することになりました。当時は非常に辛い気持でしたが、今となってはいい勉強になったと思っています。

(写真)柴田氏が手がけ、大ヒットを記録した『CR千両歌舞伎』(左)と『CRモナコサーカス』

編…奥村の社長就任中、特に印象に残っていることはありますか?

柴…これは一般メディアでもニュースになりましたが、私が辞任して半年ほど経った頃名古屋の検察庁から奥村に脱税の疑いがあるとの連絡がありました。しかし、もちろん納税は会計事務所と綿密に相談しながらきちんと行っており、結局シロであることが分かりました。とはいえ背景にはパチンコ業界に対する悪いイメージがあることには違いなく、意見の齟齬があった場合はきちんと主張することが大切なのだと学びましたね。

編…様々なことがあった奥村ですが、2015年に71億5400万円の負債を抱え倒産し、68年の歴史に幕を閉じてしまいました。

柴…実は奥村が倒産した時期、私は取引先の部品メーカー顧問を務めており債権者会議の様子なども聴取しておりました。過去に多くのセブン機などでヒット機種を生み出し、歴史も愛着もあったメーカーだけに非常に残念でしたが、大きな原因にはやはりオーナーの高齢化をはじめ業界の不透明性、そして後継者不足問題などがあったのではないかと推測しています。

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 まさに「運命の導き」のようにパチンコ業界と巡り会い、様々な苦労を経ながらも「再建屋」と呼ばれるまでに実績を残した柴田氏。奥村の社長を辞任した後も、またまた他社においてその手腕を発揮していきます。後編ではさらなる躍進をはじめ、業界への提言など柴田氏ならではの見解をお聞きしていきますので、どうぞお楽しみに!