【レトロパチンコ文化考察】第12回「時をかけるパチンコホール<5>」

(写真)50年前、華々しくオープンした「ジョイパックビル」1階の様子

 今から50年ほど前の1971年10月27日、新宿コマ劇場脇にあった「新宿劇場」を建て替えた一大レジャーセンター「新宿ジョイパックビル」竣工記念セレモニーが開催され、約3000人の招待客が正式オープン前の各施設を体験しました。このビルは、今で言う「複合レジャービル」の先駆け的な存在として大きな話題となり、もちろんパチンコなども入っていました。

(写真)大人向けのテナントが多数入る、世界有数のレジャービルだ

 こちらはオープン当初の店舗一覧。1階に「ラスベガス」というホールが入っているのですが、正確には「マージャンマシン ラスベガス」という店名になっており、設置されていたのは大信というメーカーの雀球のみ167台。全国最大規模の雀球専門店だったそうです。

 しかし、さすがに100台以上もの雀球を設置するというのはいくら当時でもかなり珍しいこと。実は、このビルの向かいにも同じ経営者の「地球会館」というビルがあり、そちらに入っていたパチンコ店「歌舞伎町センター」と競合しないよう、敢えてパチンコを置かなかったのだそうです。

(写真)雀球オンリー167台の「マージャンマシン ラスベガス」

 こちらは開店前に雀球がズラーッと並ぶ様子。ここに人が入ったら、どんな感じだったのか……? 想像するとすごく楽しいですね。

 さて、このホールと同じ1階には「ドッチェムプラザ」なるゲームコーナーもありました。そちらには、パチスロの前身・オリンピアマシンの『オリンピアマークⅢ』が30台、『スキル』なるピンボール? が10台、その他ゲーム機が置いてあり、オリンピアマシンのコーナーは大人気。

(写真)『オリンピアマークⅢ』には多くの若者が関心を寄せていた

 写真を見る限り、けっこう若い男女が興味津々といったイメージを受けます。今の時代にも見かけるような、オシャレな人も多いですね。

(写真)パチスロにより近づいた仕掛けが特徴の『オリンピアマークⅢ』

 なお、この『オリンピアマークⅢ』は構造やゲーム性などが、現在のパチスロにグッと近づいたものとなっていました。

●上部にランプが付き、ピカピカとアピールする

●85枚のまとまった払い出しがある「ボーナス」を搭載

●扉が前開き(※オリンピアマシンは後ろが開くのが普通だった)になって、ホールの管理やメンテナンスがやりやすくなった

●記録メーターが付き、ペイアウト率などを確認することができる

以上が、当時の資料で分かった大きなポイント。

 オープン以来多くの人々が訪れた「ジョイパックビル」は、のち「ヒューマックスビル」として改装などが行われ、現在は……

(写真)2021年現在、ボウリング以外のテナントはほぼなくなっていた

 上の写真と同じ角度で撮ったものですが、現在はパチンコをはじめ当時のテナントはボウリング以外ほぼなくなっていました。コロナ禍ということもあり、周辺の人通りも寂しく往年の歌舞伎町のにぎわいもまだまだといった感じです。

 ちなみに、先ほど出て来たオリンピアマシンは1964年の東京オリンピックにちなんで名付けられたという説が有名です。そこで次回は57年ぶりに東京オリンピックが開催された今年、オリンピアマシンの時代にタイムトリップしてみたいと思います。

※写真協力…(株)遊技ジャーナル社

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