【レトロパチンコ文化考察】第21回*沖縄返還50年記念*「沖縄のパチンコ黎明を探る(後編)」

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(写真)復帰前の1960年代、那覇市の「日南パチンコ」。当時はパチンコを打つことを恥ずかしがる客が多かったため、中が見えない作りになっている店舗が多かった

 前回は、沖縄でパチンコ営業が許可された昭和28(1953)年近辺の様子をお伝えしました。日本で大人気だったパチンコを沖縄にも持ち込もうとする動きを発端に、開店申請が殺到する人気ぶりでしたが、本土では翌1954年に連発式(1分間に際限なく打てる台)が禁止になりブームが一気に終焉。

 沖縄でも予想外にお客離れが早かったことや、昭和31(1956)年にそれまで米軍基地内だけで許可されていたスロットマシン(※直接硬貨を入れる、ストップボタンがないアメリカ式)の民間での営業が開始し人気となったことなどから、パチンコホールの苦戦は続いていたようです。

 その後時を経ていよいよ1972年5月15日本土復帰を迎えるにあたり、沖縄のパチンコホール組合ではその前年に全国組織「全遊協」の準会員として加盟を果たしています。一方スロットも、当初のアメリカ式が警察の指導によりメダルで遊ぶ『ボナンザスター(セガ・停止ボタンなし)』といった機種に替わっていき、1967年にオリンピア組合が設立されるなど日本式に対応する準備(※日本では停止ボタンがないと許可されないため、オリンピアマシンに替わっていった)が進んでいました。

▲▽「貸し玉1個1セント」が生み出した波紋▽▲

(写真)1973年秋、近代化が進んだ那覇市の「日南会館」

 1972年当時、沖縄県内にはパチンコホール51軒(那覇25軒、コザ12軒、名護4軒、石川3軒、八重山2軒、普天間・糸満・具志川・宮古・渡久地各1軒)とオリンピアゲーム場72軒、他にも在日米軍向けと思われるビンゴやピンボールなどがありました。パチンコ台数は前回書いた通り、当初「2500台以内」だった上限が1963年に撤廃。本土復帰の1972年時点で約8000台(※オリンピアマシンを含めての数字かは不明)が稼働していたそうです。

 また、沖縄での営業内容は「パチンコ貸玉1個1セント、景品上限1ドル20セント」と決められていました。しかし貸し玉料金は日本円に換算すると「玉1個3円以上(※沖縄では本土復帰直後、1ドル=305円で通貨交換を開始している)」となるため、当時「1個2円以内」で営業していた本土と大きな差ができてしまいます。

 加えて当時はホールの自動補給などが遅れており、設置台数の少ない零細ホールも多かったことから、組合側は同年3月公安へ「沖縄では1個4円以内とし、本土からの新規進出を5年程度禁止してもらいたい」旨の陳情を行い、何とか「玉1個3円以内」という特例項目が認められることになりました。ちなみに本土においても72年11月から「玉1個3円以内」に法改正しているので、結果的に同年中に全国でレートが揃っています。

▲▽1970年代後半以降は他県と遜色のない規模に▽▲

(写真)1980年代のホールは、他県とほとんど見分けがつかない

 紆余曲折を経ながら、パチンコにおいても復帰を果たした沖縄。翌1973年秋にはホール軒数が70軒に増え、自動補給装置や椅子席が普及。かつて「パチンコを打つのが恥ずかしい、見られたくない」というお客が多かったため出入り口を狭くして中をカーテンなどで隠していた作りも、かなりオープンになって来たといいます。

 さらに1975年にはホール軒数89軒、台数も1万台を超えました。また玉1個4円以内に改訂された1978年には、沖縄のホールが97軒と100に迫る勢いとなり、電動ハンドル普及率70%で椅子席ほぼ100%、大型ロードサイド店舗も目立つようになっている……と、業界誌が報じています。

(写真)2022年現在、沖縄のホールは大手チェーンが目立つ

 ここまで、沖縄のパチンコ黎明期について地元紙や業界誌など様々な資料を元に探ってみました。本土復帰から50年を迎える今年、2022年はホール店舗数が70軒程度になっており、写真の通り大型チェーン店が目立っています。

 この50年間を振り返ると、パチンコ業界はフィーバーやカード式の登場をはじめ、幾度かの規則改正など大きく揺れ続けてきました。沖縄のパチンコも、そうした動きに揉まれつつも強かに生き続けているようです。

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