【レトロパチンコ文化考察】第20回*沖縄返還50年記念*「沖縄のパチンコ黎明を探る(前編)」

(写真)1960年代前半頃、那覇市にあった「中央パチンコ」(85台設置)

 今年、2022年は沖縄が本土復帰してから50年となります。記念式典やイベントなども色々と行われるようですが、当サイトでは沖縄のパチンコがいつ頃から始まったのかなど、地元紙や業界誌といった資料を元に、その黎明を探ってみたいと思います。

▲▽沖縄のパチンコ営業は昭和28(1953)年から▽▲

(写真)1960年代前半頃、那覇市にあった「パチンコナショナル」(70台設置)

 沖縄県は本土復帰以前のアメリカ領だった頃、しばらくパチンコの営業が認められていませんでした。しかし1952年に発行された「沖縄タイムス」には“日本で大流行のパチンコに目をつけた業者が35台を倉庫に眠らせ、警察の許可を今か今かと待っている”といった記述があり、この頃にはパチンコの開店許可を申し込む業者がいくつかあったようです。

 そんな中、翌1953年6月1日行政から待望のホール営業が許可されました。とはいえ「全土で2500台まで」の制限付き。当初営業許可を申請した業者は「沖縄…25軒2040台、コザ…16軒570台、真和志…5軒220台、糸満…3軒110台、小禄…1軒30台、首里…1軒30台、前原…1軒30台」となり、2500台を軽くオーバーする人気ぶり。

 一方、沖縄教育委員会では「パチンコ反対声明」を発表し、「健全娯楽ではない」「教育環境上好ましくない」「怠惰の嵐が醸成される」といった理由を元に、許可を撤廃する陳情を行っていたそうで、やはり賛否両論が渦巻いていたようです。

▲▽当初は開業申請が殺到した人気ぶりだったが…▽▲

(写真)1953年にはパチンコ関係の広告も急増した

 沖縄のホール営業申請開始を受け、行政側では1953年6月4日に場所の大きさに比して台数が多いといった矛盾を取り除くなど精査を行いましたが、申請が締め切られた6月13日時点で「那覇…4999台、コザ…1060台、石川…425台、前原…335台、糸満…150台、首里…75台、名護…50台」といったように、7000台を突破。警察から適正とみなされた台数だけでも5000を超えていたといいます。

 その後、2500台に絞られて営業が始まったのか。残念ながら、その点についてはハッキリ記述した資料を見つけることができませんでしたが、1970年の業界誌にて“2500台を上限として沖縄のパチンコ営業が始まったものの、閉業が相次ぎ遊技台を独占する業者が現れたため、1963年に上限が撤廃された”という内容を見つけたので、どうやらかなり競争率が激しい中で黎明を迎えていたようです。

 この資料にもあった通り、1953年6月に鳴り物入りで始まったパチンコも、フタを開けると同年8月には“コザで許可された29軒のうち、早くも7軒が廃業”と、沖縄タイムスが報じていました。また、他の多くのホールも減台をしていたそう。原因はお客離れや家賃の高騰とされ、残念ながら初期のパチンコに熱くなっていたのは業者だけで、沖縄県民に大歓迎されていたわけではなかったようです。(後編はコチラをお読みください)

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