【レトロパチンコ文化考察】第22回:僕らはフィーバージェネレーション<第1回「フィーバー登場以前(プロローグ)」>

(写真)1978年、子供や若者で満員となっている渋谷のインベーダーハウス

▲▽パチンコの市場を脅かした「インベーダーゲーム」▽▲

 今やパチンコのほとんどが「デジタルが揃えば何らかの当りになる」ゲーム性を搭載し、それが当り前となっています。そのルーツは1980年にSANKYOから登場した『フィーバー』であったことは、多くの方がご存知でしょう。当コーナーでは今回から4回に渡り、パチンコを大きく変えた『フィーバー』とその前後の時代を追ってみたいと思います。

 フィーバーが登場した1980年以前のパチンコ業界は、78年から全国で大ブームとなった「インベーダーゲーム」の影響を大きく受けていました。写真上は1978年に渋谷のインベーダーハウス(インベーダーゲームの筐体を置いた喫茶店のようなお店)の様子を写したものですが、子供や若者で溢れ返りその人気ぶりが分かります。かくいう筆者も、当時は100円玉を握りしめて夢中になったものでした。

 こんな風に街中に溢れていたインベーダーゲームは、一体どれぐらいの規模があったのか? その辺りをネット検索してみたところ

▽タイトーが受注をさばき切れず、正規品10万台、ライセンス品10万台、コピー品30万台が溢れていた(マグミクスより)

▽1979年7月現在、全国で69,875軒の店に28万3,802台のインベーダーゲームが置いてあった(DATA PAVILIONより)

▽全盛期、新宿歌舞伎町ではパチンコ店10軒に対しインベーダーハウスが45軒あった(DATA PAVILIONより)

 といった情報を得ることができました。また、1978年のパチンコ業界誌でも同ゲームの脅威を取り上げる中で「月間1千億円がインベーダーに流れている」と計算しており、そのお金をいかにしてパチンコへ持ってくるかが業界の課題となっていたようです。

 なお、先ほどの歌舞伎町の例えですが、手元にある1978年のホール名簿を見ると新宿界隈のパチンコ店軒数は25軒。そこだけで100軒以上のインベーダーハウスがあったことになりますから、やはりパチンコの大きな脅威になっていたことは想像に難くありませんね。

 ▲▽『フィーバー』の胎動を探ってみると……▽▲

(写真)1980年春、地球が爆発するスリリングな平和の『メテオ』

 さて、そんな中でのパチンコ市場はどうだったかというと、1977年10月時点ではホール軒数が2年連続の減少となり、1万302軒とかろうじて大台を死守。インベーダー流行後の1979年10月のパチンコホール軒数は、5年ぶりの1万軒割れ(9,961軒)となったことが大きなニュースとなりました。総台数も減少し、パチンコホールからゲームセンターへの転身組も多かったとか。1978年春には貸し玉料金が4円以内に値上げしているのですが、元々縮小傾向だったパチンコにインベーダーが追い打ちをかけてしまったような格好ともいえます。

(写真)1980年春、発射台から玉を打ち上げる京楽の『UFO』シリーズ

 一方、パチンコ台では役物の制御にマイコン(マイクロコンピュータ)を搭載し、派手な動きや光によって従来にないゲーム性を楽しんでもらおうとする動きが加速します。こうした機種は「特別電役機(=特電機)」と呼ばれ、70年代末から80年にかけ『メテオ(平和)』『UFOシリーズ(京楽)』『ブレンド(SANKYO)』といったものが人気を集めていたようです。

(写真)1978年、フィーバーのルーツ(の一つ?)とされるSANKYO『ブレンド』

 中でもSANKYOは、以前「球面体ノート」のフィーバーのルーツを探る回で紹介したことがありますが、1975年に謎の「ドラム表示搭載機種(警察から許可が下りなかった)」そして1977年にボタンで停止可能なドラム表示を使った「スロッター・パチンコ(=フィーバーの本当のルーツ?)」の許可を得るなど、独自の歩みで『フィーバー』への胎動を見せていました。

 これらの他、70年代末期から80年にかけては「打倒インベーダー」を目指してユニークな台が色々と登場して来ており(次回ご紹介します)、パチンコの市場規模回復へ業界総出で立ち向かう動きが活発になっていくのでした(第2回はコチラへ)。

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