【レトロぱちんこ文化考察】第4回「テレビパチンコ狂想曲」(後編)
- 2021.04.02
- レトロパチンコ文化考察
1977年2月、西陣から登場した「テレビ付きパチンコ」は瞬く間にブームを呼び、ライバルメーカーからも続々と類似機種が登場しました(上の写真は1977年7月、テレビ付きパチンコをプッシュする垂れ幕を掲示した赤坂の『ニュー赤坂』)。
西陣、京楽、SANKYO、平和といったメーカーに続いて発表したのは、何と新規メーカーの「東洋モナコ」。この会社はテレビパチンコ市場に可能性を見いだし、1977年9月22日参入記者会見を開催。そして既に同年9月1日には埼玉県熊谷市の「キング」にて、5台のテスト導入を済ませていたのです。
東洋モナコのテレビ付きパチンコは、見た目は他社と同じような感じですが、残念ながら現時点では詳しい機種名やスペックなどは不明。また、同社の設立背景や消息についても調査中ですので、改めて加筆できましたら幸いです。
ちなみにこれまで紹介して来たテレビ付きパチンコは、全て「手打ち式」となっていました。当時は既に電動ハンドルも普及していたものの、警察庁の「射幸心をそそる恐れがある」という見解によって、テレビ付きには許可されなかった流れがあったためだそうです。
まさかの新規メーカーまで呼び寄せたテレビ付きパチンコ市場ですが、同年10月頃になると、ある「変化」が見られるようになります。上の写真は赤坂の「ニュー赤坂」10月頃の外観ですが、コーナー一番上に掲示した7月頃の写真と見比べて下さい。
「テレビ付きパチンコ」を大々的にプッシュしていた垂れ幕などが、「パチカラー」という製品推しに変わっていることに気づきます。
そうです。1977年秋頃になると、何と西陣は『テレパチマン』の販売から幕板(※パチンコ台の上部にあるスペース)に設置するテレビ「パチカラー」へと販売の主力を移行していたのです。ホール内の写真を見ても、テレビ付きパチンコは端の1台だけになっており、幕板部分へ数台おきにテレビを設置するスタイルに変化していました。
当時に詳しい方によれば、テレビ付きパチンコ『テレパチマン』は打ち手の「パチンコとテレビとどっちも中途半端になってしまう」という声や、画面がうまく映らないなどの故障が多く、販売の主力を台に直接テレビを付ける製品から幕板に設置する「パチカラー」へ移行させることになったのだそうです。
他社でも、SANKYOではスロット表示とチューリップを組み合わせた『ブレンド』が好評を集めホールへの設置が伸びていったためか、テレビ付きパチンコの話はめっきり聞かなくなりました。
翌1978年には、広告も『ブレンド赤坂(※赤坂は、SANKYOの東日本向け枠のブランド名。西日本向けは茜といった)』一色となり、後の『フィーバー』へつながる動きとなっていきます。
一方、テレビ付き『ライダーテレビ』を200台以上販売した平和でも、実はそれよりもアウト穴とセーフ穴を逆にした『逆転』という機種に力を入れており、各地で設置が伸びていきます(上の写真は神田『ジャンボ』のポスター)。
『逆転』は、打った玉が通常の「アウト穴」まで到達すれば当りとなって賞球が払い出されるというアイデアが受け、ホールでは連日大人気を集めていたそうです。写真を見ても、板前さん? まで仕事の合間に夢中になっていた様子が分かります(笑)。
そんな流れで、1977年秋以降には急速に存在感がなくなっていったテレビ付きパチンコでしたが、資料を調べてみると京楽だけは販売に力を入れ続けていたようで……
1978年秋頃まで、こうした広告を業界誌などに掲載したり、店頭向けテレビ付きパチンコの販売を続けていました。
しかし、おそらく西陣以外でも故障があったり設置台数が伸び悩んだりしていたのでしょう、1979年頃になるとテレビパチンコはほぼ消滅し、1980年以降はデジパチが主流となっていき、その存在すらほとんどの人が忘れてしまったといえます。
今ではパチンコやパチスロのほとんどが大きな液晶モニターを搭載しているのが当り前ですが、45年ほど前にほんのちょっとだけ「テレビ付きパチンコ」の熱い時期があったのだということを知ってもらいたいと、3回に渡ってその様子をご紹介してきました。
きらびやかな最新機種を打つ時、ほんのちょっとでもこうした歴史があったことを思い出して頂けましたら幸いです。
※写真協力…(株)遊技ジャーナル社
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