【レトロパチンコ文化考察】第23回:僕らはフィーバージェネレーション<第2回「ほろ苦いデビューまで」>
- 2022.07.22
- レトロパチンコ文化考察
▲▽“敵”を利用する強かなパチンコ業界▽▲
1980年に誕生し、現代パチンコに大きな革命を起こした『フィーバー』。前回より、その登場前後の時代について時系列で追っています。
(第1回目はコチラをご覧下さい)
1978年に大ブームとなった「インベーダーゲーム」は、パチンコにとって大きな脅威となりました。しかし遊技業界も強かですから、何と逆にそれを利用しようという動きが加速していきます。上の写真は1979年のホール店頭ですが、なぜか「インベーダー」の文字が。というのも、この頃太陽電子から発売された『テレコンマシン』という「インベーダーゲームとブロック崩しが遊べるアレンジ」が人気となっていたからです。
『テレコンマシン』はブラウン管を搭載したアレンジで、通常時はランダムな16個の数字が表示されています。ポケットに対応した数字が縦に並ぶとインベーダーゲーム、横に並ぶとブロック崩しの画面にそれぞれ瞬時に変わり、ボタンを使ってクリアすればメダルが払い出されるというもの。1979年7月に発売され、一ヶ月で1000台が売れてカラーバージョンも登場したといいます。
他にもインベーダーそのものを表示に取り込んでしまったSANKYOのパチンコ『インベーダー』をはじめ西陣の『スーパーUFO』など、1979年にはゲームを利用して人気を盛り上げようとする機種が次々登場しています。
▲▽新ジャンルで市場開拓の動きも強まる▽▲
一方、インベーダーに頼らず独自の工夫で市場を開拓しようとする動きも活発化し、前回紹介したマイコン搭載で派手な動きやサウンドが魅力のパチンコ「特電機」たちはもちろん、1980年8月、雀球で初めて8インチのブラウン管表示を搭載したサミーの『TV雀球』が登場してきます。こちらは受注生産が追いつかないほどの人気を集めたとのこと。
そして1980年前半の大きなトピックスともいえるのが「ロータリーマシン」という新ジャンルの隆盛です。これは、1960年代ドイツ方面から日本に入って来た「ロタミント」という回転板表示のゲームが違法賭博化で問題になったのをきっかけに、遊技場でパチンコなどと一緒に使えるように法整備されたマシン。1971年、ロータリーマシン第一号の『PAN ロンド』が登場してからやや間を置いて、なぜか1980年初頭に数メーカーから一気に発表。それだけ、新しいジャンルに期待を寄せる関係者が多かったのかもしれません。
▲▽インベーダーの“自爆”とフィーバーのデビュー▽▲
さて、再び話をインベーダーゲームに戻しますが、当初日本を席巻した勢いは長くは続かず、1979年10月の風営調査によれば50,024軒に19万3,000台と、同年7月発表の数字(69,875軒に28万3,802台)よりも激減。インベーダーハウスがパチンコホール(特にメダルを使うアレンジボールや雀球など)に替わることも、ちらほら起こって来たそうです。
そして1980年8月末、最盛期には全国で80カ所のインベーダーゲーム場を経営し、最大手といわれた「マル三商会」が60億円近くもの負債を抱えて倒産。ブームの終焉は、あっけなくやってきました。
それとちょうど同じ頃、7月29日の東京を皮切りに「創立15周年記念謝恩新型機発表展示会」を全国で開催したのがSANKYOでした。当時は地方によって許可基準が異なっていたことなどもあって、パチンコ機24機種、アレンジボール2機種、ロータリーマシン1機種とかなり多くが用意されました。
パチンコでは『フィーバー』をはじめ『アーサー(中央役物に玉を貯め、アタッカー開放と同時にまとめて落下させる)』『ビリオンキャット』『ジュピター』『六連アタッカー』『エイリアン』『バスケット』といったものがあり、当時の業界誌レポートを読むとSANKYOとしては『フィーバー』と『アーサー』が主力機種であったとのこと。
しかし、特にフィーバーは「太陽と7が揃えばアタッカーが延々開放する」という過激なゲーム性が逆に敬遠されてしまい、当初は思ったより受注が伸びずにいました。ライバルメーカーもそうしたタイプ(デジパチ)には全く関心がなかったようで、まだメカニックな役物を搭載した特電機が展示会の中心になっていたのでした(第3回はコチラへ)。
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