【レトロパチンコ文化考察】第24回:僕らはフィーバージェネレーション<第3回「狂乱と爪あと」>

(写真)1981年初頭、フィーバーの成功を確信したSANKYOの業界向け広告

※第2回はコチラ

▲▽“イロモノ”から“業界の救世主”に▽▲

「厳しい寒さに耐え、色づいた見事な葉ぼたんに、確かな改年を知らされつつも、私ども零細企業はやはり80年代をとりまく厳しい経済環境に目をそむけないわけにはまいりません」

 上記の文章は、1980年初頭の業界誌に掲載されたSANKYO代表による挨拶文の一部です(原文ママ)。この言葉にあるように、同年は何とかインベーダーの脅威から脱しつつあったものの、パチンコ業界は依然厳しい状況に置かれていました。

 前回触れた通り、1980年前半頃のパチンコ業界はゲームを取り込んだ台を作ったり、画面搭載型雀球やロータリーマシンなど目先を変えた機種によってファンの関心を集めようとしていましたが、どれも決定打とならず。7月下旬から開催されたSANKYOの展示会でお目見えした『フィーバー』も、ギャンブル性が強すぎて一種の“イロモノ”扱いで終わろうとしていました。

(写真)1980年秋、フィーバーと同じ時期の他社は、まだ『スペースライン(西陣)』『ヤマト(平和)』といった特電機が販売のメインだった

 その評価が一変したのは、同年末に新潟県長岡市の「白鳥」というホールが『フィーバー』を100台以上も導入し、大盛況となってからと言われています。SANKYOでは早速1981年はじめの広告にそうした様子を写真付きで掲載。当時はネットなどないので、そうしたものを見たり噂を聞いたホール関係者が『フィーバー』の稼働を見に行き導入を決める……といった動きが加速していきました。

(写真)1981年4月、札幌市内では6000個定量でフィーバーが大ブームに。バケツも活躍した

 1981年春には、写真の通り北海道でも『フィーバー』の開店が相次ぎ、玉箱が足りないためバケツを代用するなど大きな騒ぎになっています。それを見たお客が口コミで客を呼び、ライバル店も負けじと導入する……もう、走り出したブームは止まりません。

▲▽週刊誌が報じた“フィーバー騒動”▽▲

(写真)1981年初頭、フィーバー導入ホールには扇情的なポスターが貼られた

 こうした騒ぎに関するエピソードは1981年に多くの週刊誌が掲載しており、それらの中から興味深いものをいくつか抜粋してみます。

「フィーバーは全国で3000店20万台が稼働中。日産1500台製造しているが間に合わない状態。SANKYOは“パチンコとスロットが楽しめ、誰にでもチャンスがあるのが受けているのでは”と話している」

「長野県で一週間当り続けた学生が『Mr.フィーバー』と呼ばれている」

「当って故障したと間違えるお客もいた」

「都内の大型店舗では一日に300〜400人はフィーバーするが、打ち止めまで行くのは250人ぐらい(※Vゾーンに入らないとパンクするため)。初めての人は手がぶるぶる震えている」(以上『サンデー毎日』1981.5.24号より)

「フィーバー以前は一日1台あたりの売り上げは立地の良い店で5,000円、Bクラスで3,000円、Cクラスで2,000円だった。しかし導入後は悪くても8,000円、普通で1万5,000円。多くて3万円になった」

「全台をフィーバーに入れ替えた店長のぼやきは“閉店後、ゼニ勘定するのがイヤになるよ”だった」(以上『週刊サンケイ』1981.7.2号より)

「ホールはそれまで一日平均80万円の売り上げが300〜400万になり、ほくほく顔だ」

「名古屋の理系学生がボタンを駆使して月に200万円稼いで出禁になっている」

「出玉を運ぼうとしてぎっくり腰、狭心症を発症する騒ぎ、開店から将棋倒し、デジタルに夢中な客から玉盗み、フィーバー用バケツを勝手に持ち帰る人が続出、バケツが足りなくなり町内で奪い合いなど、全国で騒動が相次いでいる」

「店員の仕事が2倍になり、手当を出さぬ店から辞める人が続出したり“客より店員がほしい”とボヤく店主もいる」

「地方のホールに負け客狙いのサラ金が出張している。免許証を見せれば4〜5万円すぐ貸してくれるらしい」(以上『週刊現代』1981.8.6号より)

 これらの記事を読むと当時の混乱ぶりが分かりますが、とにかくホールの売り上げが驚異的に伸びたことは事実で、他にもメーカーの状況について

「当時4万台も売れればヒットのところ、西陣のターボは6万台弱、SANKYOのフィーバーは13万台以上売れている。ターボは1台9万円ちょっと、フィーバーは10万5,000円なのでメーカーにも巨額の利益をもたらした(『週刊ポスト』1981.9.11号より)」

と、詳細を掲載している雑誌もありました(※台数などは雑誌によって数値が異なっていますので、ご注意ください)。

 ちなみに余談ですが、今回色々な誌面を調べた限りフィーバーなどを「デジ・パチ」と初めて称したのは「週刊現代」だった可能性が高まりました。この辺りも、今後ハッキリさせたいところです。

▲▽このままでは業界が崩壊してしまう!▽▲

 さて、フィーバーの華々しい成功を目の前にして、他メーカーももちろん黙っているはずはありません。1981年2月以降には、他社からも以下の機種が続々登場しました(順不同)。

  • 平和『ブラボー』
  • 西陣『ターボ』
  • 三洋『パニック』
  • ニューギン『エキサイトセブン』
  • 大一『アイドルセブン』
  • 京楽『サンダッシュ』
  • 高尾『セブンインパルス』
  • 豊丸『バックファイヤー』
  • 奥村『スーパーダッシュ』
  • ミズホ『電子ファイヤー』
  • 丸善物産『ビクトリー』

(写真)1981年5月、ホールの超特電ポスター。「バネ切り」とは打ち止めのこと

 これらはマイコンを使った「特別電役機」のさらに上を行く「超特別電役機=超特電」と呼ばれ、初期のものはほとんどがフィーバー同様「図柄が揃うとアタッカーが30秒開放し、V入賞する限り無制限に繰り返す(小当り付きも多い)」タイプだったようです。

 超特電はいずれも電動ハンドルの枠を使っていましたが、当時まだ大阪府だけはその導入が大きく遅れており(※電動式は設置台数の30%までという自主規制を行っていたため)、4月になって規制を撤廃。それ以降から本格的なデジパチ導入が始まることになりました。

(写真)1981年5月、ホールに掲出された看板。開きっぱなしのアタッカーを強調している

 このように地方の導入スピードに多少格差はあったものの、一攫千金を狙って大金を使うお客とこれまで経験したことのない売り上げに浮かれるホールやメーカーの狭間で「このままでは業界が崩壊してしまうのでは!?」と、その未来を心配する声が挙がりはじめたのは、当然の流れだったかもしれません。

 既に4月、新潟県と静岡県では業界を存続させるため「打ち止め個数を3000個(静岡はこれに加えて1ホールにデジパチ100台まで)とする」自主規制を決定しており、バケツを使うのを止めようという呼びかけも始まったとされています。

 しかし、勝ち(負け)金額も売り上げも桁違いになったパチンコ業界には、もはや自ら全体的な状況にブレーキをかけようとする動きはなかなか見られず、ついに6月、警察庁からの通達が行われるに至るのでした(次回につづく)。

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