【レトロパチンコ文化考察】第25回:僕らはフィーバージェネレーション<最終回「“二憲法”が残したもの」>

(写真)1981年、超特電ブームに乗って登場した“ヤバい”看板

※第3回はコチラ

▲▽行き過ぎたギャンブル性と“二憲法”の誕生▽▲

「従来の10倍の売り上げに驚いている。しかしその分4,000個打ち止め即開放して、お客さんに還元するようにしている」

 これは1981年春、超特電(=デジパチ)を導入したホールが業界誌に語ったコメント。前回ご紹介した通り『フィーバー』がもたらした従来にないギャンブル性の高さは、瞬く間に全国へ大きな影響をもたらしました。1978年に貸し玉1個4円に値上げされていたのも、結果的に売り上げを大きく伸ばす要因となっていたと思われます。

 初期の超特電は「ドラム(デジタル)が揃えばアタッカーが30秒間開放し、Vゾーン入賞で何度でも繰り返す」というものでしたが、気になる大当り確率について当時のメディアにおける記述を探したところ…

「オール7の確率は1,000回転に1回だが、自然に止めると(※当時は表示を停止させるストップボタンがあった)500回に1回当るようになっている、とメーカーが話している(『週刊ポスト』1981.6.19号より)」

 こちらの記事を見ると大当り確率は500分の1程度と推測されますので、オール13だったとしても打ち止めからまた新たに投資せねばならないなど(当時は確率変動もなく、無制限や等価交換も浸透していなかった)、お客さんの負担は想像以上に厳しいものだったと思われます(打ち止め個数を少なく設定していたエリアは、逆にお客さんの負担が増大してしまっていた可能性すらあります)。

 そのような状況は長くは続かず、1981年6月10日、警察庁より「善良な風俗を害する恐れがあるため」として、超特電のスペックについて以下のような通達が行われました。

  1. 大当りの繰り返しは最高10ラウンドまでとする
  2. 保留玉個数は4つまでとする
  3. 始動チャッカーは全入賞口の3分の1までで、スルーは禁止
  4. 現行タイプは9月30日までに撤去すること
  5. 7月15日以降設置する台については新基準を満たしていること

 一方、パチンコホールの全国組合である全遊協でも既に5月27日、以下の自主規制を決定し即日実施を開始していました。

  1. 誇大宣伝の自粛
  2. チラシ、看板を出さない
  3. 貼り紙をしない
  4. バケツを使わない
  5. 「●号機フィーバー中」などと放送しない
  6. 著しく射幸心をそそる打ち止め個数にしない
  7. 超特電は総台数の30%までとする

 警察庁の通達による「超特電の基準改正」と、業界側による「営業方法の自主規制」。この2つは当時「二憲法」などと呼ばれ、一般メディアでも大きな反響を呼びました。

▲▽1981年9月30日、遂に撤去▽▲

(写真)都内では9月30日限定で打ち止め1万個のイベントを行う店もあった

 遂に、超特電の出玉が規制される……! 業界関係者や一部ファンにとって大きな失望を生んだ二憲法でしたが、メーカーでは改正後の基準に対応した新機種を次々発表し、フィーバーに次ぐ覇権争いが激化することになります。新基準に対応した主なラインナップは、以下の通り(順不同)。

  • SANKYO『新フィーバー』オール15ver.&オール13ver.
  • 西陣『ターボR』
  • 平和『ブラボースペシャル』
  • 三洋『スーパーパニック1号』
  • 大一『アイドルセブンパート2』
  • ニューギン『エキサイトセブン2号』
  • 高尾『セブンインパルス』10回開きver.
  • 京楽『ニューサンダッシュ』
  • 竹屋『スクランブル』
  • 豊丸『バックファイヤー』パート1&パート5
  • ミズホ『電子ファイヤー1号』
  • 銀座『ラッキーフィーバー』

 調べた限りですが、これらの中で『新フィーバー』は1ラウンドにつき10カウントをいち早く採用しており、出玉の急激なパワーダウンによる市場への影響も少なくありませんでした。

 そのような中、上の写真のように初代超特電が撤去される最終日には「打ち止め1万個」など盛大なイベントを開催する店舗もあったようです。そして9月30日、全国を熱狂させた初代『フィーバー』をはじめとする超特電が、ホールから姿を消しました。

(写真)1981年9月30日、ホールでは初期超特電の撤去が一斉に行われた

 とはいえ、すっかりホールにとっての稼ぎ頭となった超特電の人気はその後も続いており、1983年11月13日には徹夜明けに大当りを出した19歳の男性が急性心不全で死亡。また、当時デジタルの即止め用に搭載されていたストップボタンを駆使して大当りを狙い打ちするプロなども全国に現れ、その都度基板改修や入れ替えが行われるなど、不穏な空気はまだまだ続いていました。

 ちなみに規制後のホールやファンの様子については、一般誌が以下のようにレポートしています。

「1981年10月以降、大阪梅田のホールでは“売り上げが5割ダウンした”と嘆いている」

「500台を抱えるホールでは、お客は惰性で打っているような雰囲気だ。数は大きく減ってはいないが、突っ込む客が減っている」

「手動式から打っているファンいわく“フィーバーは邪道だった。店も大もうけしたんだから、この際出玉率を上げて地道なファン作りをするべきだ”と話している」(以上『オール大衆』1981.12月発行号より)

▲▽デジパチそしてパチンコの未来とは…?▽▲

(写真)1984年、アタッカー15秒開放を知らせるポスター

 超特電については1984年にも「アタッカー開放は15秒まで」「1ラウンドは10カウントで終了する」といったさらに厳しい規制が行われ、1985年の規則改正までには、ほぼ「1回の出玉1300個」へ姿を変えていました。しかしその後も「おまけチャッカー」や「大当りの連チャン機」など基準のスキを突いたギャンブル性の増大、そしてその規制が繰り返されています。

 また先ほどの「二憲法」のうち「超特電は設置台数の30%までとする」という項目は、やはり稼ぎ頭を失いたくないという思いから、90年代初頭頃まで全国のホールが遵守しており、羽根モノやアレンジ、雀球など多彩なラインナップが設置される機会も生み出していました。ところがそれも、CR機でギャンブル性が増大して以降なし崩し的に崩壊。

 その後はご存知の通り、2004年に種別撤廃という大きな基準変更があったものの、基本的には「ギャンブル性の増大→規制」を繰り返しているのが現状です。しかしそもそもデジパチが生き残っているのは、「二憲法」を守って来た業界の先人たちがいたからこそだったことも、忘れてはならないのではないでしょうか。

 折しも2022年は「スマート遊技機」によって、業界の構造が大きく変わろうとしているタイミングとなりました。ギャンブル性を上げることだけが、お客を呼ぶ方法なのか? デジパチにこだわり続ける必要性が、本当にあるのか? 私たちはフィーバーとその時代がもたらした光と影について今一度振り返り、考え直してみる機会をちょうど得ているのでは? と思います。そしてこのシリーズが、その一助となれば幸いです。

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