【球面体ノート37】50年前(1972年)はどんな年だった? 当時のパチンコニュース5選!
- 2022.10.26
- 球面体ノート
▲▽まだ手打ち台しかなく、椅子席も珍しかった1972年▽▲
2021年、コロナ禍で一年の延期があったものの、58年ぶりに開催された東京オリンピック。当サイトでは、そうした状況にちなんで「時をかけるパチンコホール」という約50年ほどのタイムトリップ企画を不定期で掲載しています。
同企画では今年(2022年)に対して50年前つまり1972年頃のホール(跡地含む)を訪ねているのですが、そもそも1972年はどういう時代だったのか? そこが知りたい方も多くいらっしゃると思い、今回当時の出来事や特徴を5つにまとめてみました。
1972年の特徴その1 : 手打ち台オンリーの最後の年だった
2015年、メーカーのエイゴンが『昭和物語』という手打ち台を発表して大きなニュースになりましたが、1972年当時はまだ手打ち台しかなく電動ハンドルが存在しませんでした。
ちなみに電動ハンドルが登場したのは翌年だったので、手打ちオンリー最後の年であった、ともいえます。
1972年の特徴その2 : 椅子席が増えていった
元々、パチンコは屋台などで子供が遊ぶスタイルから発展したとも言われていますので、「立って打つ」のが当り前でした(立って打つコーナーは“立ち島”と呼ばれました)。
しかし1960年代中頃から椅子席が少しずつ登場し、1972年には「椅子席完備」といったホールも業界向けニュースでよく取り上げられるようになっていきました。
1972年の特徴その3 : 貸し玉1個3円(以内)に値上げ
歴史の流れ的に、パチンコが不況に陥ると叫ばれるようになるのが「貸し玉料金の値上げ」でした。当時も1個2円から4円への値上げが各方面に陳情されており、結果的に11月15日から「1個3円以内」という値上げが決定。
ちなみに3円時代は短く、1978年には「1個4円以内」に値上げされていますが、以降は2022年現在まで44年もの間“据え置き”……いや、1円やそれ以下など値下げすらしているという状況になっています。
1972年の特徴その4 : 枠と盤面が分離しはじめた
パチンコでは前年の1971年、平和が画期的な「分離式パチンコ」を発表。それまで枠と盤面一体が当り前だったのを、分離させて盤面だけ交換できるように提唱したのです。
当初はメーカー側の儲けが減ってしまうこともあり、他社の反発などもあったといいます。1972年は平和がほとんど孤軍奮闘状態でしたが、次第にホール側の需要が増え、枠と盤面の分離が常識になっていきました。
1972年の特徴その5 : 店名で一番多かったのは「銀座」
1972年当時、ホールの店名で一番多かったのは「銀座」でした(※遊技ジャーナル調べ)。以下、当時の店名ベスト10をご紹介します。
- 「銀座」
- 「朝日」
- 「ラッキー」
- 「平和」
- 「モナコ」
- 「富士」
- 「光」
- 「中央」
- 「赤玉」
- 「ホームラン」
どれもレトロな雰囲気を感じますね。
最後に、当時のデータ(※警察庁調べ)をまとめておきます。
<1972年パチンコホール&パチンコデータ>
- パチンコホール軒数…9304軒(前年比マイナス89軒)
- パチンコ設置台数…162万9336台(前年比プラス3万6638台)
数字から推測できる通り、当時は100台以下の小型ホールがどんどん減り、中〜大型化が進んでいたようです。ホール減少が続く現在も結局大手が残るのでは……と言われており、時代の繰り返しを思わざるを得ません。
※写真や文章の無断転載を禁止します
★「時をかけるパチンコホール」シリーズを、ぜひご覧下さい!
「上野アメ横<前編>」→コチラ
「上野アメ横<後編>」→コチラ
「池袋東&南口編」→コチラ
「池袋西&北口編」→コチラ
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